昭和五十年十二月五日 御理解 第七十一節
ここへは信心の稽古をしに来るのである、よく稽古をして帰れ。夜夜中どういう事がないとも限らぬ おかげは我が家で受けよ 子供があるものや日雇取りは出て来る訳には行かぬる病人があったりすれば捨てておいて参って来る事は出来ぬ、壮健な時にここえ参って信心の稽古をしておけ。
信心の稽古と、どう言う事を稽古して帰るか。
昨日神愛会でしたから、まあ先生方信心の研究をされる、させて貰いました、本当に有り難い所謂研修でした。
そして先生方のいろいろの発表を聞かして頂いたんですけれども、日奈久の富永先生が一言、全く会楽教学ですなという事を云われた。
朝の御理解を三時半から四時迄、三十分宛て、先生方が全部纏めたり、または頂きどころといった様なところを書いております。日記風に皆、ですから本当にそれを、全部読んで貰いましたんですけれども、本当に新たにまた信心の研修が出来たという感じでした。毎日毎日の事ですがああ素晴らしいなあ、有り難いなあというとっても、もうかつかつ ゆくのが、研修しているその上、その要所要所だけを書き留めておくという、日々を追ってそのことを研修さして頂いて、改めて研修さして頂いたんですけれども、それを頂き終わってから、結局全く会楽教学だと云われる訳であります、教学ではおかげは受けられん、教学では徳をうけられない、という風に云われます。教学もやはりおかげが受けられる、お徳が受けられる教学でなければ意味がない、という風に云われます。だからそういう意味で会楽の御理解を会楽教学だと云うならばです、本当におかげが受けられる、そしてお徳が受けられる、愈々信心の奥所え奥所えと進んで行けれる、いうならば神様の深さに広さにふれる、て行けれる、だからこちらの信心も、深く広くなって行く、その深さ広さという事が深い広い結局おかげに繋がるのだと、いう事を改めて思はしてもらいました。
確かにですね、教会は沢山あります、この頃も一日のお月並祭の時に三井教会でお話を私さして頂いて、その後に岸先生が、これは何十年来もう、記念祭とか大祭、式年祭、とかといった様なときの会計は私がずっと三井教会でやらせて頂いとりますが、もうこればっかりはいつもの事ですけれども、多くも少なくもない、ケジメだけはキチット付いて行くもう恐ろしいばかりだという訳と、それから自分自身がこんどご造営で、幾ら幾らおかげを頂きたいと思うておったのが、キチットおかげを頂いた話やらを致しておりました。
それでそのお話を頂いた後でしたから、だから例えばなら記念祭なら記念祭が百万なら百万という、計上された計画をして、キチットそれが多くもない少なくもないという様に、おかげを頂くのだから百万円よりも五百万円、五百万円より一千万円の頂く方が良いでしようがと、それには百万円の信心ぢやない、ゆはり五百万円の信心、いや一千万円の信心という様に、広く深くなりさえすれば大きく頂けるのです。折角頂くなら大きく頂いたが良いです、ぢゃないですかというてもそれがピンと来ないようですね。
会楽の方たちは分かるでしよう今私が申します事は、同じその日暮らしでも、本当に間違いのない事だ、本当に百円なら百円のその日暮らしが出来ておる、こんなにチヤッと神様がお繰り合わせ下さるのなら、百円のその日暮らしより一千円のその日暮らしの方が良いでしよう。
一千円のその日暮らしより一万円のその日暮らしの方が良いでしようね、ですから間違いのない働きを頂き、間違いのないおかげを受けておると、いうことがこれはもう絶対間違いのない神様なんです。
そんならどういう信心をさせて頂いたらそれが大きくなるか広くなるかという事をです、思うて愈々自分の心を広うして行き深うして行き、する以外にはないでしよう、毎日例えば一万円の売上がある店であるならばです、一万五千円の売上にしたいと思うならば、お店もの、受けものを大きく作らにやいけません。そして大きくお役にたって行かなければいけません。 ・・ ・・
昨夜十二時頃だったでしよう、例によってお礼に出て参りますから、出て参りましたらまだ食堂が明々と電気がついとります、昨日は松栄会でしたから、松栄会が済んで、幹部の方が二三人寄って若先生を中心にして、信心話に花が咲いているところでございました。
私もそこにかたらせて頂いて、お話をさして頂いたんですけれども、ほんに会楽で信心の稽古をさして頂いておるという事がです、本当に有り難いと思います、という事を各自が言ってわりますですね。
そりや難儀もある、苦しい事もある、様々な事にも出会うけれども、もし会楽の信心を頂いてなかったならば、どういう事になるだろうか、またなっただろうかと思う、そういう意味で有り難い。どういう事に例えば直面いたしましてもです、いうなら腹の立つ様な事があっても、損になる様な事があってもです、それから暫く時間をかけるとです、それをああ本当におかげだな、本当に神様がこっちを大きくして下さる、よりおかげを下さろうとする御神慮以外にはないんだなと、わかるというのです。
ですからそれが即ち、そういう頂き方が出来る様になる。まあ稽古を皆さんしておる訳です。所謂信心の稽古に通うてくるところ、会楽で頂いた、例えば御理解をです、早速実生活の上に現す、実生活の上にいうならば、それを稽古の焦点としておかげを頂く、それを繰り返して行く内にです、いうならば本当の事という事がわかる。
会楽の場合はもう、流れて流れて、流れ切るというか、停滞しておるという事がない、いつもより本当のことを、いわば求め続けておる訳です。
これは私一生涯、求め続ける事でしよう。
丁度夕べおそかったからお風呂に入ったから、たまたまゆうべそんな話がでた、実はね私、今風呂の中で考えた事なんだよ、とにかくお道の信心が本当に霊を清める、そういう難かしい話が出てたんです丁度。
霊を清める、然もその清まった霊を以て、あの世にやらせて頂く事によって、だからあの世でということやらもう年取って出来る事ぢゃない。
今若い内に本気で霊を清めとかにやならんという、話が出ましたからね、実は私も今考えた事だよ、いくら本当にこの世には霊を清めに来とるのだと例えば頂いても、皆がいっちょん清めよるごたる風ぢやなか、結局私の言うことを信用しないのだろうと思う、それでもし私が風呂の中で考えた事は、私がこんど、こんどちゅうか、そんなことはないからね、
私が死んだ時にはね、一遍死んであの世に行って来て、もう先生が死んでしもうたけんお棺の中に入れてしもうたら、また生き帰りっしゃったというおかげを神様にお願いしたらどうぢゃろうかと思うたと、行って来たらやっぱり、私が言っとった通りに霊を清めておらなければ、行けるところぢゃないよと怖くて、という事実。
わたし自信はそれをしんじておるから、皆さんに聞いて頂くのですけど、実際に私がです旅立ちをする時にです、もう親先生はしまえなさった、お棺の中にでまた生き返ってきなさった、そしてこの事だけを、言ひ残してまた死になさったという様なね、おかげを頂いたら皆信用するかも知れんと、いった様な笑い話ともこれは本当は、私の気持ちですから、というて話したことです。
もうこれは間違いなかろうと思うです、本気で霊を清めておかなければ、とても怖くて行けないところだ、そこでその清めるということに、焦点を置いて、本気で事ごとにです、いうならば難儀なことであっても、腹の立つ様な事であっても、苛々するような事であっても、それを自分の霊を清める材料にしてゆくということは、これに依って清めて下さるんだということを、本当に分かったら、そのはがいい事やら、腹の立つ事やら苛々する様な事がらにです、お礼が言えるのです。
またこんな話も出ました。
久留米の石井喜代司さんに、金光様の信心を止めろというて、まあいうなら踏んだり蹴ったりされたっちやこの人は絶対止めんだらうという話がでました。
なぜかって本当の事を把握しているからです。先日から信心は命だとか、あなたにとって金光様の御信心とは、命以上だとかという御理解を頂きましたが、本当なことが分かったら、金光様の御信心は止められんです。特になら会楽での信心はもう止められはしませんです。いうなら会楽ほど教祖の御教えをいうならば本当な説き方、しかもそれが教学的である、深い、広いその深遠さという事をです感ずる。然もです誰にでもわかる教学というところに会楽の値打ちがある。然も教学ではおかげが受けられん唯詳しくなるだけ、と言うことですけれども、会楽の教学はお徳が受けられる、おかげが受けられる教学だという事なんです。
お前がごたるとはもう参って来るな、もう金光様の信心は止めれと、例えばいわれてもです、なら石井喜代司さんは絶対止めないだらうという、それは絶対止めんだらうとなぜって、本当の事がわかっているからです。
そのことその問題を通して、自分を深めたり高めたりする材料にしてゆく例えば、絶対腹を立てないという、喜代司さんの行き方なんかです、もう立てちや馬鹿らしかという行き方、も本当だったですけれども、最近はね、もうとにかく金光教は有り難いの一言につきる、有り難いという答えを出して行く以外にはないという風に進んでいるです。
どういう事があっても有り難いと受けて行く以外にはない、もう目が覚めると有り難い寝るときまた有り難い、昼様々なことが起きてまいりましても有り難い、そういういうならば本当なことを、判ったら止めろといはれても止められるものぢやない、とてもおかげを頂くから止めろ止めないぢやなくて、本当なことがわかるから。
信心の稽古という事をです、お参りをするやはり修行が伴はなければそれこそ、唯の教学であって、詳しく会楽の場合であっても、唯詳しくなったというだけでは、昨日の御理解の中にも申しました様に、ああ今日の御理解は素晴らしい表現で、素晴らしい深さのある、御理解だったなと判っただけでは広さも深さも、おかげにもつながりません、それこそやる気十分、という今日は愈々これに取り組んで、稽古をさせて頂こうという気にならなければという、昨日の朝の御理解でしたけれどもね、それを本気で稽古をさせて貰はなければいけんのです。
もう出来る出来んはね、人間生身を持つとりますから、中々体がいう事をきかんという事もございますよね、けれども限りなく稽古をさせて頂こうというね、心だけは持つとかねばいけません、例えば朝のご祈念にお参りをするとき、やはり朝の御祈念にお参りし続けてそのお参りが、有り難くなるところまで極めて行かねばなりません。
稽古の楽しさが身につく様にならねばいけません、サアところが一寸目がさめなかった、もうだからよかよか今日は御無礼しよう、とそこで御無礼しようという人がありますけれども、よし今から参りや御理解だけ位には間に合う、というてそれに出てこなけりやいけません。もう御理解も済んだろうけどテ一プだけでも聞かせて貰おう、という様にもう限りなくです、出来なくてもその次ぎの段と申しましようか、そういう私は信心の稽古をさして貰うには、心掛けが必要であると思います。これは稽古の心掛け、そしてその稽古の対象となるところは、どうかというと、会楽の場合どこまでも、まあいうなら天地の道理とか、天地のお恵みとか、いうならば本当な事がです、天地の約束、所謂法則、より本当な事という、天地の真理、いうならそういう心にならなければ、人間はこういう心にならなければ、幸せはあり得ない、こういう法則があるから、この法則を破ったら、幸せになれない。という様なことをです、お互い生活の中に、守ってゆけれる、行じてゆけれる、いうなら容易う説いて下さるのですから、それを本気で稽古しなければいけません。
もう一遍聞いたからよいというのぢやない、いわゆる繰り返し繰り返しの稽古、その繰り返しの稽古の中に、やはり今日は 忘れたという事がありますけれど、そういう時には今私が申します様に、朝の御祈念には間に合はんばってん、まあ御理解だけ位には間に合うだろうから、御理解にも間に合はなかったらせめてテ一プでもという様な、私は稽古の姿勢です。
これはそれを持って帰って行ずるということに於いても同じ事です、ああ今日はここでと、今日は此処と思うて焦点を置いても、稽古をさせて頂きよったのに、また失敗をしたならです、もう私は駄目だと匙を投げる様な事をせずに、また程度の一寸低いところで稽古をさせて貰うという位にね、そういうねばりが信心のこれは何でも同じです、そのねばりがなければ本当の稽古は出来ません。
此処には信心の稽古に来るところ、参ったり拝んだりの稽古をするところではなくて、より本当のことより大きく広く、おかげを頂いて行く事のための私は教えを頂いておるところと思います。
その愈々本当のことという事が、自分の身についたら、それこそ止めろというて叩かれても蹴られてもです、止められるものではないものが信心です、そこを広く深く説いて頂くのですから、広い大きなおかげを頂く例えば、間違いがない、神様の働きは間違いがない、というのがです、いつまで経っても百円のその日暮らしでは、私はつまらんと思う。
その様に間違いがないならばです、いうならば二百円のその日暮らしが出来る様に、心を広くして行かにやいかん、いうならば一千円かた広うして行かにやいかん、いや万円かた心を深く広くして行かにやいけない、そこになら万円の、間違いのないその日暮らしが頂けるという事にもなるのです。
そして今申します様に愈々、霊を清める事の大切さということ、心を愈々広く大きくして行く事の大切さということ、そこには腹を立てたり苛々したりという事がなくなって来るおかげの世界があるのです。しかもそういう心の状態には、それに相応しいおかげがちゃんと伴っておるのです。
今日は私は信心の稽古に来るという事をということがです、此処では稽古の材料というか稽古の発表を、私の信心の体験を通して、神様に頂いたお知らせを通して皆さんに説かせて頂いておるのですから、愈々それが自分のものになる、という事がそのまま信心の稽古になるという事ぢやないでしようか。確かに壮健なときに此処え参って信心の稽古をしておかねばならん。此処には信心の稽古をしに来るところであるという、私はその姿勢でお参りをさしてもらはねばいけない、そしておかげは我が家で受けよであります。
ゆうべ私はお夢を頂いた、障子があって硝子があって家内と二人で寝んでいる。それを招じをがたがたいわして開けよる、誰か、ああこれはこれは泥棒が入って来よるなと思うたから、後でガチヤッと障子を閉めた、そして向こうで泥棒でしよう、言うのがです、一暴れしてやろうかと障子の向こうで言ひよりますところです。
私はそれを聞いたとたんに、初めて金光様というておるお夢であった。夜夜中どういう事があるかわからない、そういう時にです、所謂、金光様ところ、まさかの折りには、という昨日の御理解ぢゃないですけれども、その金光様が出る、おかげを頂かなけりやいけない、それをやはり日頃稽古をさして頂いておかんとです。
そしてからその言うた後にです、こうゆって耳ばしたらもう向こうにはおらんという感じでした。ああおかげを頂いたなというところで目がさめた。
ですからおかげは我が家で受けられるだけの稽古を身につけておかんとまさかの時には役にたたん、例えば腹の立つ問題であってもそうです、ということがわかっておっても腹が立つそれではいかん、もうそれこそ、喜代司さんの前の信心ぢやないですけど、もう本当に腹を立てちゃ馬鹿らしいという事がわかる、いやそれがむしろ有り難い事だとわかつてこなければ、ならない様にです、本当に本当なことがわかったら、そうしなければ馬鹿らしい事になるのです。お互い稽古の焦点を日々のこりかいの中から一つ頂いて今日はこれで行こうという事を一つ身につけて行かねばならんと思うですね。どうぞ。